其の壱 その唇は静寂なり

 私は女だ。
 彼女がそう強く感じたのは子供の頃。まだ小学生だった。母親が留守の間に、勝手に母親の化粧道具を使いメイクをした。自分が想像してたよりも遥かに上手な出来栄えで、彼女はそれを誰かに見せたくてメイクをしたまま外へ出た。近所のコンビニ、商店街の先にある公園、通学路にある本屋、同年代の子達が居そうな所へフラフラと歩いて回った。
 途中、店の窓ガラスなどに自分が映る度、何度も足を止めて自分の顔を数秒眺めた。薄く塗ったファンデーションに、光沢がかった口紅。それらを確認するように、そして愛でるように数秒見つめて、またフラフラと歩き出す。
 いつもと違う雰囲気の自分に酔っている事がわかる。歩き方もどことなく“美人の歩き方”をしている。モデルウオークとまではいかないが、いつもよりも品があって落ち着きがあるような歩きだ。
 しかし、かれこれ30分は歩いてるのに誰にも会わない。いつもなら5分も歩いてればすぐに誰かと鉢合わせるのに。もう、諦めて帰ろうとしたその時、背中をポンと誰かに叩かれた。同じクラスメートの女子だった。彼女は今できる最高の笑顔で友達に笑いかけた。
 ここで、彼女の脳裏に過ぎったのは“絶対に自分から話してはならない。それは負けだ”という事。
 何をもってして負けなのかは定かではない。強いて言うなら“納得の部分において負ける”という事だろうか。“どこか変わってないか?”“いつもと様子が違うんじゃないか?”という疑問はこちらから投げかけるべきではない。向こうに気付かせなければ負けだ、と彼女は何故か強く思った。
 彼女の目論見通り、友達はあっさりと
「あれ?どこか変わった?」
と言った。
 言い知れぬ興奮がつま先まで電撃の様に走った。興奮を通り越して快楽と言っても良い程だ。高らかに笑いそうになるのを必死でこらえ、冷静を装いながら彼女は
「ちょっと軽くメイクしてみてさ」
と言いながら微笑んだ。
 人を魅入らせる事がこんなにも快感だとは思ってもいなかった。興味本位でメイクをしただけだったのに、まさか自分のこんな一面を知るなんて夢にも思わなかった。
 それから、彼女は母親の眼を盗んでは、度々メイクをして出かけるようになった。やがて彼女の通う小学校ではそれが有名になり、下級生の女の子からファンレターが届いたり、男の子から優しくされたり、または告白されたりするようになった。学校にいる間は流石にノーメイクだったが、放課後になればすぐ家に帰ってメイクをして外出した。メイク後の彼女を一目見ようと、彼女の動向を追う輩がどんどん増える。
 これは才能だ。
 彼女は感覚的に理解した。子供とは思えないメイクテクニック。しかし、それ以上に人を魅入らせる事に長けている、と彼女は痛感したのだ。今回のメイクのように、きっかけさえあれば自分はあっという間に人を虜にできるのだと。
 程なくして彼女は“女優になりたい”と思うようになる。自分の魅力で相手の視線を釘付ける快感…いや、“視線を平伏させる快感”と言った方が彼女の中では正確な表現で、それを仕事に出来れば自分は一生快楽と共に在れると思ったのだ。

 それから数年。18歳になった彼女は、ある劇団に所属していた。誰しもが一度は名前を聞いた事があるその有名な劇団で、彼女は看板女優として名を馳せていた。
 栄華と名誉…そして、快楽を弄ぶ日々。美しさもさることながら、演技力も申し分ない彼女の右に出る者など、劇団には一人も居なかった。
 そんな彼女に付いた異名は“唇の魔女”。
 それは、見た目の美しさもあり、発せられる台詞の美しさも兼ね備えての異名だった。
『彼女の唇は傍観者を瞬間に虜にしてしまう魔法である』
 世間で誰もが認める彼女のキャッチフレーズに偽りはなかった。18歳という若さが放つ初々しさと、誰をも飲み込んでしまうかの様な妖しさ。ある者には、神々しさまで与える程の彼女の唇。全てが彼女の思惑通り。まさに順風満帆の日々が続いていた。
 だが、ある日彼女の目にとまった廃れた小劇場がそれを狂わせる事になる。これまでの栄華も名誉も彼女の中で、全て静寂に帰してしまうかのような、今まで味わった事がない“否定”の舞台が幕を開けるのだ。

 これは、彼女の女優として、女として、全てのプライドをかけた一瞬の物語。