其のニ その唇は上等なり

「おつかれさまでした!」
 まだ桜も散りきらぬ時期。彼女主演の舞台が見事に最終公演を迎えた。
「打ち上げどうします?座長が飛び切りの店を用意してるみたいですけど」
 大歓声の冷めやらぬ中、舞台裏で彼女に上着をかけながら付き人の男は言った。
「やめとくわ。なんか疲れたし寝たい」
 ペットボトルの水を一気に飲み干し、彼女はさっさと控え室へ向かった。付き人の男も、他の共演者も、舞台監督も、その他の雑用係も、もうその見慣れた光景に何のリアクションも起こさなかった。彼女は表舞台に繋がらない行為に基本的に臨まないのだ。興味がないのか、または本当に疲れているのか。とりあえず、舞台や演技以外の事で彼女の口から出る台詞は「面倒」、「疲れた」、「寝る」ばかりだった。
 控え室でとっとと着替えを済ませた彼女は誰に挨拶をする事もなく、裏に用意されていた車に乗り込んだ。いつもの事なので、付き人も先回りして車の運転席で既に待機していた。
「どこか寄ります?」
「いい。帰る」
 案の定、出待ちの客が車を囲んだが、警備員などに抑えられて客は道を開き、彼女を乗せた車は出発した。
 10分ほど走ったところで、車は渋滞にぶつかった。どうやらこの先で事故でも起こったらしい。炎上でもしているのか、消防車のサイレンが聴こえる。
「これは迂回した方が良さそうですね。ちょっと遠回りになりますけど」
「じゃぁ、そうして」
 大通りの渋滞を回避して、車は裏路地を進んだ。15分程走ると、都内とは思えない軒並みが広がっていた。
「なに?ここ」
珍しく彼女から口を開いたのにやや驚きながら付き人は答えた。
「未開発地ってやつですよ。いわゆる下町ですね。戦後からの軒並みがそのまま残ってるんです。あれ?関東大震災からだっけか」
「ふーん」
 付き人の眉唾の説明を聞きながら彼女が軒並みを眺めていると、洋式の一軒の古い建物が目に入ってきた。
「あれは?」
「え?さぁ…なんでしょう?小劇場ですかね」
「停めて」
「え?」
「停めろ」
「あ、はいはい」
 彼女に強めに言われて付き人はキキィっとブレーキをかけた。停車した途端、彼女はドカっとドアを開けて建物に向かって歩きだした。
「どうしたんですか?一体」
 ツカツカと歩く彼女を追いながら付き人が尋ねる。
「ねぇ、マンネリって言葉知ってる?」
 ピタっと足を止めて振り向きもせず彼女は言った。
「もうさ…あたし、あの劇団飽きちゃったんだよね」
「え?マジですか」
「なんて言うか、予定調和すぎて面白くない。あたしはね、あたしを認める新たな舞台が欲しいの」
「はぁ…新しい舞台…ですか」
「…まぁ、戯言よ。気にしないで」
言いながら彼女はまた建物に向かって歩きだした。
 近くまで来ると“リップ・アクター”と書かれた古い看板が目に入った。
「やっぱ劇場みたいですね。でも、やってるのかな?」
付き人の声に耳を貸そうともせず、彼女は劇場の扉を開いた。勝手に開けちゃ駄目だと言いたげな付き人の目線を無視し、彼女はズカズカと奥へ向かう。
 受付には誰も居らず、すぐそこに舞台客席への入口が見えた。中へ入ると、やっと50人ぐらいが座れそうな狭苦しい客席に、如何にも小劇場といった小さなステージがそこにはあった。
「あれ?一人だけ客席に座ってますね」
付き人が言う方向に目をやると、30代前半頃の男性が舞台を見つめて席に腰掛けていた。こちらに気付かないのか、男は微動だにしない。
「今は何もやっとらんよ」
 後方から声がした。振り返ると、初老の男性がニコニコ笑いながらこちらにゆっくりと向かってきていた。
「ここら辺の人じゃないね?こんな下町の劇場になんか用かい?」
「あんたは?」
付き人が尋ねた。
「ワシはここの館長だよ。お前さんらは客かい?」
「おじいさん、ここは舞台劇場で、あなたはここの館長なのね?」
彼女が付き人を押しのけるように横にどかし、老人に尋ねた。
「あぁ、そうさ。聞こえなかったかね?」
「舞台関係やってながら、あたしを知らないの?」
「ん?あんた女優さんかね?すまんが知らんのう。ワシはいい女優しか覚えられんタチでね」
「おい、じいさん!この人を誰だと…」
憤慨しかけた付き人の肩に手を置き、彼女は言った。
「面白いじゃない」
 今やスターダムに登り詰めた彼女を知らぬ舞台関係者など居ない。だが、それもこんな老人には通用しないのだ。こんな下町の廃れた小劇場の館長。それに若くないのだから最近の芸能事情に詳しくないのも仕方のない事。彼女はそう思いながら老人に言った。
「この劇場、流行ってるの?」
「はっはっは」
老人は高らかに笑った。
「流行ってるものか。今にも潰れそうだ」
「そう…じゃぁあたしが客を呼んであげるわ」
「え?何する気ですか?」
付き人が心配そうに彼女に尋ねた。
「ここで演じるわ」
「えぇ!?駄目ですよ勝手に…そういうのは事務所で決めてからじゃないと」
「いいでしょ?おじいさん」
困惑する付き人を尻目に彼女は老人に訊いた。
「面白いことをいう娘さんだ。好きにすればいい。どうせ誰も来やしない」
「決まりね。あんた、帰っていいわよ」
「え?で、でも」
「帰れ」
「あ、は、はい」
戸惑うばかりの付き人を一喝の元に帰らせ、彼女は舞台へと顔を向けた。
「おじいさん、あたしが如何に有名で実力があるか今から教えてあげる」
言いながら彼女は舞台へと向かって歩きだした。
 好都合な事に、今客席には30代前半頃の男が座っている。流石にあの年代なら自分を知っているだろう。男の驚く顔を見て老人も自分の無知に気付くのだ。そして、そこからクチコミだけでこの舞台を盛り上げる…面白いじゃないか。突如訪れたイベントとしては大合格だ。
 彼女は舞台に上がった。しかし、男に変化はない。そうか…暗いから顔がよく見えないのだ。
「おじいさん、照明つけてもらってもいい?」
老人はゆっくり手をふると会場の照明を付けた。
 安っぽいライトが彼女を照らす。どうだ?これで気付いただろう?
 しかし、男は反応しない。こちらを見てはいるが、顔色一つ変えない。視線も舞台の奥の方を指している様に見える。
 おい、待て。お前…あたしは“唇の魔女”だぞ…。
 まさか、知らないのか?いや、クールを演じているだけか?クールを演じていたとして、一体なんの意味がある?
 戸惑う彼女に老人が言った。
「この男もな、いい俳優、女優しか覚えられないタチなんだよ」
 老人の言葉が信じられなかった。心情の上でそういう事はあったとしても、事実スターである自分をゴシップ程度にも知らないというのか?
 頭に血が登ってきた。もう何も無かった事にして帰ってやろうかと思った瞬間。
 彼女の目にとんでもないものが入ってきた。
「これは…」
 唇だ。
 男の唇は何とも形容しがたい美しさと色気に満ちていた。今まで誰しもの視線を自分の唇で魅了してきた彼女だからこそ、その美しさに圧倒されてしまったのだ。

 上等だ。

 彼女は嫉妬に近い衝撃と共に、感情が高ぶるのを感じた。そもそも自分に興味がない男を、自分よりも美しいかもしれない鮮やかな唇を持つこの男を魅了する事が自分の宿命だ。今、ここで、この舞台に巡りあったのは恐らく運命なのだ。やってやろうじゃないか。
 
 黙れジェラシー。今は静かにしていろ。
 舌先冗談の愛撫の様な台詞で、あの男をご満悦にさせてくれる。
 紡いだままの其の唇を淫靡に濡らしてやろう。

「おじいさん、舞台を開始してもいいかしら?」
老人はニコニコ笑いながら
「あぁ、構わんよ」
と言った。